スピリチュアル神のメッセージ5 霊界には何も持って行けぬ
スピリチュアルでは、生命あるものは滅び、形あるものは壊れます。人間の肉体も例外ではありません。しかし、霊魂は肉体を離れ霊界へと旅立ちます。神のメッセージ「霊界には何も持っては行けぬ!」自分が最も執着していた肉体すらも脱いで行くのですから、執着していたなにひとつも持ってはいけないのです。他の何が持っていけるでしょうか。
私のPCの向こうにいるあなたへ ネオコンサルの橘佑稀です。

愛する家族、財産、地位名誉、霊界では何の意味もない
この世での物質はもちろん、執着していたなにひとつも持ってはいけないのです。今あなたが大切にしているもの、愛する家族や一生懸命貯めた財産、やっと手に入れた地位と名誉などは、霊界では何の意味も持ちません。
現世では肉体があるからこそ、食べ物、洋服、お金、そのための仕事、そして地位などが必要になってくるのです。肉体のない霊魂だけの世界では、現世での地位や名誉の代わりに霊魂の状態そのものがステータスになります。
霊界での真の価値観とは?
霊魂に刻まれているカルマができるだけ少なく、できるだけ汚れのない魂が、霊界にあっては最も価値があるものです。現世では何の地位も名誉もなかったにしても、魂が清らかであれば、霊界に行ったときには億万の宝物を思って霊界入りをしたことになります。
となれば、現世にあって魂以外のものに執着することがいかに無意味なことか、そして、現世で魂を磨いておくことがいかに大切か、少しは分かって頂けるでしょうか。
現生に執着しすぎると同じ波動を持った人に憑依する
では、この世の物に執着しすぎるとどんなことになるのか触れておきましょう。人間は死ねばその霊魂が霊界に行きますが、現世に未練があると霊界へ行くことができずに、この世を浮遊します。
そして、その霊魂と同じ波動を持っている人に憑依することになります。つまり、 「類は友を呼ぶ」と言うように、善きにしろ悪しきにしろ、波長の合う人間に憑依し、現世で果たすことのできなかったことを実行させようとしたり、同じ思いを味わわせようとするのです。
低級霊や悪霊となって願望達成をしようとする霊魂
恨み、妬み、憎悪の念が捨てきれず漂う魂は、同じ念を持った人間に憑依して苦しめます。つまり、現世にあっても、欲や得のためにだけに固執している人は、霊界の同じ念を抱く霊に憑依され、その霊のもつ願望達成のための様々な執着を起こします。
この執着は悪想念となり、魂の汚れになり、カルマを増やし、波動を狂わせていきます。これは全て魂に刻み込まれますから、霊界に行ったときには魂はボロボロの状態。神の方向に逆行した人の霊は、霊界にあってはまさに地獄行き、となれば、この世での執着がいかにいっときのものであるか、ということが分かります。
人間と言う肉体を持った瞬間に執着が始まる
あの世とこの世との往来によって、次第にカルマをなくし、最終的には神と同じ波動になる。この時に初めて本質的に成神ができることになります。しかし、人間と言う肉体を持ったときから執着は始まります。
それは肉体と言う物質を持つ人間の宿命のようなものともいえます。執着を断ち切る、それは仏教の最大のテーマにもなっていることです。
執着するなと言われれば、執着しないことに執着する。それが人間の本質的な姿。 ならば、その執着を捨てるには、肉体と言う物質を捨てなければできないと言うことになります。
執着は人間の宿命のようなもので、あるからこそ人間
そこでこう考えてください。執着は人間の宿命のようなもの。あるからこそ人間。しかしその執着こそが、人間の霊的な進化を阻んでいることは事実ですから、できるだけ少なくすることを考えるしかありません。
仏教においても、キリスト教においても、その他多くの宗教には戒律、戒めがあります。しかし、私の信じている古神道にはありません。
古神道は霊的な存在を重視しているところが他と違う
なぜ古神道になくて、他の宗教にあるのか、と言うことになりますが、古神道においては「人間は神の子」と言う根本理念に基づき、もともと霊的な存在を重視しているからです。
その他の宗教の場合には肉体の次元を重視するために、肉体があるための執着をできるだけ少なめにするために戒律をもうけているのです。戒律とは、誰もが守れないから律によって規制するのであって、簡単に守れるものなら何も戒律などと大仰に定めなくてもいいことです。
最後に一言
執着はあって当たり前。その執着の囚われをいかに少なくするか、と言う事をテーマに生き方をもう一度考え直してみてください。
古神道の根本理念と言う難解な部分を説明しましたが、要は、戒律でしばる事がなく自由奔放で、霊的な存在を重視していると言う事です。
お疲れ様でした。又、あなたとお会いしましょう。