父の終戦記念日と日本人の特有なYAP遺伝子の事を語ります。
父の終戦記念日は命日です。一般的には毎年8月15日と決まっていますが、私が終戦記念日を勝手に変更しました。日本人の特有なYAP遺伝子を父も私も持ち合わせているのではないかと思ったからです。尚、検査はしていません。そこで、父の終戦記念日の話しと日本人が持つ親切遺伝子である、特有なYAP遺伝子の事をあなたに語ります。
私のPCの向こうにいるあなたへ 終戦記念日とYAP遺伝子の話しです。ネオコンサルの橘佑稀です。
日本人の持っているYAP遺伝子?
筑波大学の遺伝子研究の世界的権威
村上和雄先生は日本人が持つ珍しい遺伝子yap遺伝子を
発見しました。特に日本人女性の約4割YAP(+)
日本人男性で1割YAP(ー)親切遺伝子ともいわれ、
日本人特有の親切心、勤勉さ集団行動はこの遺伝子の
影響があるそうです。
日本人はモンゴロイド系で遺伝子は
日本固有YAP(ー)を持ち世界中探してもルーツがいまだ
解明されていないそうです。地球上にないのなら外から来た
と考えれば自然なのではないかと思います。
正確には、日本人だけではなくチベットにも少数YAP遺伝子を
持っている人が多いようです。
父の終戦記念日は父の命日にしようと!勝手に決めました。
私の父は、自ら志願をして少年兵となり海軍に所属され、確かマレーシアか、ビルマだかの戦地へ行かされたそうです。3年位前に叔母から聞いて大変、驚きました。「あの弱っちぃ父が?!」
初めての戦いで、左足の小指を敵兵の銃弾が貫通して、まともな治療も受けられず、麻酔もせずに切断されました。それから間もなく終戦となり、日本に帰還となったそうです。
戦後、間もなく経った後に父と母は結婚をしました。
暫くして生まれたのが私でした。私がもの心付いた頃に「足の小指が痛い・・・」と父が顔を歪めて良く言っていました。
子供心に「何故、無くなってしまった小指が痛いんだろう?」と不思議に思いましたが。何故なのか理由を聞いてはイケナイと私の心がブレーキを掛けるのです。だから、いつも知らぬ振りをしていました。
私は、一度も父の事を尊敬した事もありませんでした!!!
私は、故郷を離れて長年、東京住まいだったので、いつしか忘れてしまっていたのですが。ある日に父から「どうも調子が悪いので入院するから」と電話で知らされました。
「大丈夫?そっちに帰ろうか。」と声を掛けると「嫌、大丈夫だ」と父は答えましたが、気掛かりで仕方がなかったのです。そこが、やはり親子なんですね。
二日目にどうでもこうでも、帰らないと思い立って仕事も手に付きませんでした。
帰ってこなくても良いと言うのは、私の事を思って言ったんですね。
父に内緒で気が付いた時には、飛行機に乗っていました。翌朝、目覚めると同時に母と一緒に病院にお見舞いに行っていました。
父は、照れながらも満面の笑みを浮かべながら、「帰って来なくても良かったのに」と言ってくれました。
次の日は、少し遅めに病院に行って「どう、すこしは具合良いの?」と尋ねたら、驚いた事に昨日の病室とは違っていたのです。
実は、父は既に末期ガンだったのです。
看護師さんに尋ねたら、「集中治療室に移られました。」
「昨日より血圧や脈拍がかなり、異常な状態なので念の為の処置です。」「かなり、痛むのでしょうか?」「痛みのひどい方にはモルヒネで処置をします。私の経験からすれば激痛だと思いますが、お父様は一度も痛いとは言われませんね。」
私はもう危ないのかなと、覚悟をしました。
父は兩腕に点滴、心電図を測る計器に繋がれ、口と鼻には人工呼吸器を付けて眠っていたのです。
私は暫く父の手を握ってボーっと外を眺めていたら、イキナリ起き上がって、ベッドを持ち上げて欲しいと何度もジエスチャーをするのです。
病魔に侵された身体で敬礼をするのです!!!
レバーを上げて背もたれのようにベッドにもたれて、真剣な面持ちで遥か遠くを見ながら敬礼をしました。何度も何度も繰り返し、私がベッドを持ち上げて、父が敬礼をする。
その光景を見ながら私の頭に閃いたのは今、意識のある内に聞かなきゃ「あの無くなった足の小指は痛くないの?」すると蚊の鳴くような声で「戦地で亡くなった戦友を思うと何のこれきし」と言いました。
その後に母を先頭にゾロソロと身内や親戚が集まって来ました。
そして悲しいかな、こと切れてしまったのです。
「きっと、小指が痛むのではなく心が、痛んでいたのではないか」と今になって、そう思って来ました。
あの第二次大戦の負け戦に、父を含めて勇敢にも戦地に向かった名も無き少年兵達は、日本を守らんが為で純粋に愛国者そのものだったと考えます。
戦争に自ら志願をして父は命こそ落とさないまでも、人生の大半を「戦争責任もない」のに罪を背負って、あまりにも不憫です。
父の終戦記念日は父の命日だと勝手に決めました。
つい、この間、同じような境遇の方にお話しをしたところ、「お父様は足の小指を失ったけれど生きて故郷に帰れた。
しかし、多くの帰還兵がそうであったように、戦死した戦友を思うと自分だけが生き残ったことに罪悪感を感じて、人生を心から謳歌できなかったのではないでしょうか?
日本人が持つ利他主義のYAP遺伝子のなせる業では???
大東亜戦争は日本人のお人好しYAP遺伝子が本領発揮した聖戦だったのでしょう。」と一昨日、お話しして頂けました。
これを聞いて、私は何故か胸の中のわだかまりが溶けて無くなったような気がしました。
私は戦争を知らないので、病気がちだった父を見るにつけ情けないと思い、尊敬できずに今まで来ましたが、そうではなかったんだと父の我慢強さを見せられて、ようやくわかったからです。
父と上手く行っていない事の原因は、ここにありました。
しかし、それが、日本人の親切YAP遺伝子の所為だとすれば、こんな残酷なコトはないですね。
でないとしても、これは避けては通れなかった問題なのでしょう。
地球上にないのなら外から来たと村上和雄先生は仰っていますので、もしかしたら?私達は宇宙人?(笑)例え、YAP遺伝子でなくても日本人である事は間違いないですね。母も日本人ですから私にも受け継がれています。
最後に一言
お話ししたように父を理解するのに時間が掛かりましたが、ここに書き込む事で父の事にお蔭様で「誇り」を持てるようになりました。
父の命日は4月、潔く桜と共に散って逝った、私達父娘の終戦記念日となりました。
この身にもYAP遺伝子が脈々と繋がっている事も日本人だからこそと受け入れます。
最後まで読んで頂けた、あなたにも有難うございましたと心から言わせて下さい。
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橘佑稀って、どんな人こんな人です!
あなたと又、お会いしましょう!